着物にまつわる豆知識
有能な男の話題は、
相手の知的好奇心をくすぐる。
だらりの帯の家紋の理由?
舞妓さんのだらり帯の下の方に紋が入っているのをご存知でしょうか。
この紋はそれぞれ所属する置屋の家紋です。
ではなぜ家紋をわざわざ帯に入れたのでしょうか?
1. 所属先の明示
舞妓は、特定の置屋(花街で舞妓や芸妓を育成・支援する家)に所属しています。帯に家紋を入れることで、その舞妓がどの置屋に属しているかを一目で示すことができます。
- アイデンティティの象徴
家紋は、置屋ごとに異なるデザインで、置屋の伝統や由緒を象徴しています。 - 舞妓の信頼性の証
家紋は舞妓がきちんとした置屋のもとで教育を受けたことを示し、花街内外の人々からの信用を得るための重要な役割を果たしています。
2. 花街文化の継承
家紋は、花街の文化や伝統を守り、次世代に継承していくための重要な要素です。
- 格式の象徴
置屋の家紋を身につけることで、舞妓はその格式ある伝統を背負っていることを自覚し、舞やおもてなしの芸を磨く励みにします。 - 伝統の共有
花街における家紋は、地域全体で守られてきた伝統を体現するものであり、その継続性を示します。
3. 個人の誇りと意識
舞妓にとって、家紋入りの帯を締めることは、自分がその伝統を受け継ぐ重要な役割を担っているという自覚を促します。
- 誇りと責任
家紋は舞妓自身に「伝統の担い手」としての誇りと責任感を持たせるものです。 - 芸の励み
家紋を背負うことが、より一層の芸の精進や花街文化への貢献を意識させます。
文様・紋様・模様の違いは?
皆様は、文様、紋様、模様の違いについてご存知でしょうか?
まず、「伝統文様」などと、今でも広く使われている「文様」には描く者によってその形が変化し、自由な表現方法を示すニュアンスがあります。そのため文様は装飾性や芸術性を重視し、伝統文化の時代背景を表すことに結びつく場合が多いです。
もちろん、伝統的な和柄には『型』が存在しますので、あくまでも型に沿った自由表現です。
一方、紋様の「紋」は、例えば『家紋』のように、描き手が変わっても再現性のある(結果が同じ)、定型的な形となり得ることを指しています。いわゆる「紋切り型」と呼ばれる「ワンパターン」のことですね。
紋様は、象徴やアイデンティティを重視し、歴史的・社会的背景を持つものが多いです。
最後に「模様」とは、染織などを主とする製品の表面の図柄(和柄に限らない)として施されるデザインの総称です。
模様には紋様や文様がそれぞれ独自に表現される場合もあれば混在する場合もります。
装飾パターン全般を広く指します。
浅葱裏(あさぎうら)とは?
浅葱裏は、薄い藍色(浅葱色)の木綿を使用した着物の安価な裏地のことです。
浅葱色も藍で染まる色だが、藍染は染める回数によって色の濃さが変わり、色名も変わります。
当然、染める回数が多いほど高価になります。
染色作業を繰り返すことでできる色名の代表的な色は、1回染めは「甕覗(かめのぞき)」藍が入った甕をちょっと覗いた程度という意味。
3〜4回は「浅葱(あさぎ)」
7〜8回は「縹(はなだ)」
9〜10回は「納戸(なんど)」
16〜18回は「紺」
19〜23回染めはもっとも濃い「鉄紺」さらに「褐色(かちいろ)」のように濃くなっていきます。
つまり、浅葱色は安価な染め物を意味し、そこから「浅葱裏」は、貧乏侍や田舎侍を象徴する言葉になりました。
江戸時代に国表から江戸表に参勤した貧乏な田舎侍や下級武士、そして浪人達を揶揄して、町衆は「浅葱裏」と蔭で呼んだそうです。
余談ですが、新撰組の隊士が着用していた羽織の色が浅葱色で、袖の白い山形模様が特徴です。このことから、浅葱色は新撰組の象徴的な色としても知られています。
衣装のジャポニスム
ジャポニスムと言えば、古伊万里や浮世絵、漆器などを思い浮かべますが、着物もヨーロッパに渡り、貴重なドレス素材として珍重されました。
江戸末期、フランスや英国に渡った着物はドレスに生まれ変わって、再びヨーロッパの貴婦人達を華やかに装いました。
友禅染と刺繍と摺疋田の技術を組み合わせたシルクの着物は当時のヨーロッパの人々を魅了したのです。
「江戸解き文様」
江戸時代、大名屋敷の女中が国元に帰る際に、あるいは江戸城の女中が退職する際に、着ていた着物を解きほどいて反物にして売ったことが「江戸解き」そもそもの名の由来とされています。
特に江戸城の女官達が好んで着ていた茶屋辻染の四季の草花や動物、風物詩、庭、江戸の街並みなどの風景を俯瞰で捉えたデザインを「江戸解き文様」と称するようになりました。
「御所解き文様」
同じく「御所解き」は、御所や貴族に仕える女官達の衣装を解きほどいて反物にしたものを言いました。
後に、「江戸どき文様」と同様に「御所解き文様」と呼ばれる、御所を舞台とした優美な風景や情景、御所の庭などを描いた文様を言うようになりました。日本の伝統的な染織文化の中で、特に格式高い柄として知られています。
以上のように当時の最高の生地と染織技術を用いて作られた「江戸解き」や「御所解き」の反物は高価で取引され、一部はこのように海外に渡り、貴婦人達のドレスに生まれ変わったのです。
当時のフランスやイギリスの貴族のご婦人達にとって日本の着物生地は、憧れの布だったのです。
女性の羽織の始まり
女性の羽織の始まりは江戸時代の深川の芸者(辰巳芸者)だったと云われています。
深川の芸者には「羽織芸者」という異称もあるほど、羽織が特徴的でした。
深川芸者が客席に羽織を着て出たところからこの呼び名が付いたそうですが、ことの始まりは、屋形船のお座敷の際のあまりの寒さにある芸者が、ご贔屓の旦那の黒羽織りを借りて、寒さ凌ぎに羽織ったのが始まりだろうと云われています。
それを見た他の芸者も真似をするようになりました。
しかし、防寒具では色気も粋さもないので、男物であることを逆手にとって、「深川芸者は、色を売らず、『意気』と『張り』を看板にしているんだよ」と男っぽく啖呵を切り、それが受けたのが事の始まりだと云われています。
それで、人気が出始めたので、芸名も女名前ではなく、「ぽん太」や「蔦吉」「豆奴」などの男名を名乗るようになったそうです。
志村立美さんが辰巳芸者を描いた日本画「木場」はまさにそれですね。
このゆったり感は男物を着ていることから生まれるのです。
辰巳芸者は冬でも足袋を履かず、素足、地味な鼠系の色の着物がさらに特徴だったとのことです。
羽織は人前で脱げるものですから、「脱ぐ色気」も辰巳芸者の魅力の一つだったと云われています。
因みに男の黒紋付羽織は正装ですが、女性の羽織姿は今でも正装ではありません。
松藤文様
この文様は、江戸時代に流行した文様だ。
平安時代の和歌「山高み松にかかれる藤の花 そらより落つる波かとぞ見る」に因んだ図柄が始まりと言われ、松の枝に掛かった藤花を打ち寄せる白波に見立てるという、古典文学からはじまった雅やかな意匠です。
因みに、江戸時代の封建社会においては、一種のステイタス(身分や家柄や教養の高さを表す)として好まれた図柄がありました。
それを代表するのが、『文芸文様』です。
文芸文様とは、例えば万葉集、古今和歌集、伊勢物語、源氏物語・・等々に因んだものや、その他、歌舞伎や能の演目に因んだもの、中国の故事に因んだものなどが、これらの類と言えます。
当時、このような図柄の意味を理解するには、ある程度の高い教養が必要でした。必然的に文様から身分や家柄が現れます。
現代でも人気がある『古典柄』と呼ばれる着物の図柄の大多数は、明治以前のこのような意味言われ、時代背景、着用者の身分などを表す吉祥柄を模倣または継承したものです。
それが、明治、大正、昭和、平成、令和となっても伝統文様として継承されてきたのですが、時代と共に少しずつ図柄に込められる意味や謂れに対する関心が薄れ、自分が着ている着物の本来の意味を理解せず、更に作りても同様となり、市場には意味不明の図柄が多くなってしまいました。
和服が禁止された時代
あなたは、きものを着ることを禁止された時代があったことをご存知でしょうか?
太平洋戦争真っ只中の1942年、婦人標準服が厚生省より決定され、戦時下での訓練や避難などで和服は適さないとして、国から半強制的に洋装化が指導されました。実質禁止されたわけです。
結果、女性は「モンペ姿」。
この決定に至るまでには歴史的背景があります。
その一つが大正12年の関東大震災で、避難における和服の非活動性が問題になり、和服不要論が起こりました。
さらに、昭和2年から5年ごろまで続いた昭和大恐慌は膨大な失業者を生み出し、華美な晴れ着の自粛ムードが蔓延します。
そこに追い討ちをかけるように昭和7年の白木屋デパート火災が社会問題化します。その火災では和服女性22名が死亡し(きものが原因とされている)、生活改善運動による洋装化へ。
またしても着物不要論が巻き起こり着物にとっては受難の時代に突き進みます。
そして昭和16年から始まった太平洋戦争です。
戦争は女性から愛する人と、きものを奪いました。
以上の事から解るように、洋服が日常着になった現代において、きものは戦争や災害のない平和で安心な社会が前提となって人々に着られる衣装なのです。
和服は先人達から受け継いだ、美意識と思想と哲学が形になったものです。
きものを着ることで先人達の想いを読み解くことができます。
私達は和服を着る事によって多くの学びと感動をいただきました。
着物の価値を一言で言い表すとしたら「感動価値」です。
比翼紋(ひよくもん)
「在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝」
「願わくば天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」
これは、中唐の詩人・白居易の詩『長恨歌』の一節です。
『比翼の鳥』とは伝説の鳥で、1つの翼と1つの眼しか持たない雄鳥と雌鳥が運命的に出会い、一緒に飛ぶときは一体となり、理想の形になり、しかも離れなくなるという、理想の男女を表わします。
また、「比翼」は理想の夫婦を表す瑞兆を寿ぐ言葉として、さらに「一対」を表す場合にも持ちられます。
「比翼仕立て」や、「比翼紋」などもこの言葉から派生しました。
さて、この写真では、二つの家紋が重ねられています。
これが「比翼紋」です。
ご覧の写真の比翼紋は下が前田家の「星梅鉢」その上に重ねているのが徳川家の「三つ葉葵」です。
前田家と徳川家の関係を表した比翼紋です。
前田家が徳川の傘下であること、そしてその関係は恒久であることを表しています。
紙子(かみこ)
和紙(多くは手紙)を貼り合わせてつくられた衣類を紙子又は紙衣と言います。
古くから寺院や武士の防寒用などに用いられ、また貧しくて布の着物をきられない人にとって欠かせない代替品でした。
しかし元禄期(1688~1704)には富裕な町人や茶人にも愛用され、廓通いの通人たちが高価な材料で仕立てた贅沢な紙子もあったそうです。
歌舞伎の和事の典型的な人物によく見られるのは、零落「やつし」の境遇です。主に貧しさや、零落した身の上を表現するのにこの衣装は用いられています。
和事では傾城(遊女)に金を注ぎ込んで勘当された大家の若旦那や金持ちの息子が放蕩のはて一文無しとなったやつれ果てた姿を表わすのがお決まりのスタイルです。
入れ上げた傾城(遊女)からきた手紙を貼り合わせた紙子を着て出るのが『廓文章 吉田屋』の主人公藤屋伊左衛門。実家から勘当されながらも愛しい恋人・夕霧に会うため廓に出向く伊左衛門が身につけた衣裳がこれです。
紙衣は、江戸時代は文字通り、書簡用の和紙を揉み、貼り合わせて仕立てました。
歌舞伎の衣装としての紙子は和紙ではなく布を用いて制作するので美しいのですが、実際にはかなり見窄らしい姿だったはずで。
芝居は基本的に「綺麗事」ですから、「リアリティー」よりも「美しさ」が優先され、写真のように色も現実離れした紫と黒の美しいものになっていま。
若者の落語離れが著しいらしい。
先日、YouTubeで若手の落語家が、「このままでは日本から古典落語が消えてしまう」と嘆いていました。
その最大の理由は、古典落語で使われる言葉が現代の人々には理解されにくいという点だといいます。
例えば、お金の数え方に使われる「歩」「朱」「文」といった言葉。
これらは、現代の人には馴染みがなく、ピンと来ないらしいのです。
とはいえ、古典落語の中で貨幣価値だけを現代に置き換えるのは不自然なため、正統派の落語家たちは江戸時代のリアリティを守っているのです。
さらに、今は使われない名詞が落語には沢山出てきます。例としては「いかけや」「あんどん」「質屋」「岡場所」「半鐘」「ももひき」「たいこ持ち」など、更に動詞や形容詞が更に内容をわかりにくくしています。
このような若者が理解できない言葉を挙げればキリがないのです。
また、「四万六千日、お暑いさかりでございます」といった古い言い回し(慣用句)も、多くの人には意味が伝わりにくいのです。
要するに、古典落語は子どもたちにとって、理解できない言葉のオンパレードなのです。
それでも歌舞伎のように視覚的に楽しめる要素があれば良いのですが、落語は見た目も地味です。
これでは、若者の落語離れが進むのも無理はないかもしれません。
ところで、2024年に、アメリカを中心に大ヒットし、エミー賞を最多受賞したドラマ『SHOGUN』をご覧になった方も多いと思います。
アメリカで制作され、アメリカ人向けに放送されたドラマでありながら、
主要な登場人物はすべて日本人で、セリフの7割以上が日本語(字幕あり、吹き替えなし)という構成でした。
さらに、セリフは時代考証を取り入れた古い日本語が用いられ、セットや衣装もこれまでのハリウッド作品にありがちな「なんちゃって日本」ではありませんでした。
もちろん、過去に嫌と言うほど見せられた中国文化と混同されるような陳腐な表現も見当たりませんでした。
私も観ましたが、古い日本の「本物感」を演出している点に深く感心した。
近年、外国人の間で着物ファンが増えたり、日本の文化的価値に関心を持つ人々が増加しているそうです。
そうした中、『SHOGUN』を観て感動する多数の外国人がいるという現実は、まさに日本の現状とは逆行しているように感じます。
日本は既に、「灯台下暗し」の状態になりつつありますね。
剣を抜くことがなかった剣の達人
さて、『武道の究極の技とは?』
合気道の達人、塩田剛三氏は、ある時、弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と尋ねられました。
すると塩田氏は、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と言ったそうです。
この塩田氏の話で坂本龍馬が初めて勝海舟に会いに行った時の話を思い出しました。
時は文久2年12月9日のこと。
幕府政事総裁職の松平春嶽から紹介状を得た坂本龍馬は、門田為之助、近藤長次郎と共に、当時幕府軍艦奉行並であった勝海舟の屋敷を訪れました。
その時、坂本龍馬は「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては、敢えて公を刺さんと決したり」と、場合によっては勝海舟を刺し殺す覚悟で勝邸を訪ねています。
海舟自身も後に「坂本龍馬。あれは、俺を殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時俺は笑って受けたが、落ち着いていて、何となく冒しがたい威厳があって、良い男だったよ」と回想しています。
結局、この時の出会いで、その日のうちに勝海舟は坂本龍馬を弟子にしてしまいました。
そして、その後の龍馬の運命さえも変えてしまう影響を与える事になるのです。
多くの剣術では「後の先」つまり「相手が先に抜いてから、やむおえず先に相手を切る」。
これが剣の達人と言われます。
しかし、究極の剣術は「先の先」つまり『相手に刀を抜かせない事』に行き着くのです。
勝海舟の差料は、名刀「水心子正秀(すいしんし まさひで)
剣と禅を極めた彼だからこそ使いこなせた剛刀です。
しかし彼はそれを決して抜くことはなかったと云われています。
江戸時代に極まった美意識「粋」
ちなみに「粋」と対極にあるのが「野暮」だとされています。
江戸時代、江戸の町衆は皆「粋」を目指しました。
当然、「野暮な・・・」と、評価されたり、呼ばれたりするのを嫌ったのです。
「粋」の特徴
- 洗練された美意識
「粋」は派手すぎず控えめすぎない、絶妙なバランスを保った美しさを重視します。例えば、着物の色使いや柄選びにおいて、見えない部分や裏地に上品な工夫を凝らすなど、奥ゆかしい美的感覚が粋とされました。 - 自己表現と簡潔さ
自分らしさをさりげなく表現する一方で、無駄を省き簡潔にまとめるセンスが粋とされました。派手さよりも、控えめで品格ある自己表現が尊ばれました。 - 人間関係における「粋」
人情味や気配りがありながら、過度に干渉せず、程よい距離感を保つ態度も粋とされました。例えば、贈り物をする際には過剰に気を遣いすぎないが、相手の心に響く選び方をすることが理想とされました。 - 遊び心
粋には、堅苦しさを避ける柔軟さや遊び心も含まれます。言葉遊びや、ちょっとしたしゃれた仕草などが庶民の間で粋とされました。 - 精神的な豊かさ
経済的な豊かさだけではなく、精神的な余裕や自立心も「粋」の条件でした。たとえ質素な生活であっても、清潔感や整った身なりで自分らしさを表現することが大切とされました。
「粋」の象徴それが着物
江戸庶民の着物は、派手ではなく深みのある色や柄を選ぶのが粋とされました。裏地や小物で自分の好みや遊び心を隠れた形で表現することが重要でした。
これらは現代も日本人の根底に流れるお洒落の極意です。
粋を目指し野暮を嫌う生き方、素敵ですね。
祇園の一見さんお断りの本当の理由
京都の花街ではお茶屋遊びをするお客さんには、付き合えるお店は1軒だけという暗黙のルールがあります。
信用がものをいう世界である花街では、お店を変えることは、その店を裏切るということになるのです。花街では、お茶屋さんは違っても「どの置屋(おきや)の誰だれ」というように、気に入った舞妓や芸妓を呼ぶことができます。
昔は、浮気をする(お茶屋を替える)人は、たちまち街中に噂が飛び交って、すぐに嫌われてしまったそうです。
しかし、昨今はそのようなしきたりも軽んじられ、お茶屋も営利目的であるので、存続の為に目を瞑ることが多くなったと、以前、私が知る女将は嘆いていました。
さらに客がお茶屋に支払う代金の支払い方は特殊で、客は一々その日の金額を尋ねたりせず、お茶屋も毎回お会計をしていたわけではありません。
江戸時代や明治時代は、盆暮の年に二度払いが普通でした。(今は違います)
まさに信用の世界だったのです。
ところで祇園のお茶屋さんなどでは、下足番が客の履き物を管理していました。
驚くことに、常連さんの履き物を毎回観察するうちに履き物や靴底などの減り方から、客の健康状態を見抜いた下足番が実在したそうです。下足番が客の異変に気づくと、女将や客の馴染みの芸妓にこっそり告げていたそうです。
それを聞いた芸妓や女将は、それとなく客を病院に行くように誘導したり、客の奥様に連絡したり、最大限の配慮をしたそうです。(これは特殊な一例です)
つまりお茶屋とは、究極のホスピタリティーを心得た接客業であったということです。
だから、まずは信頼関係を構築することを優先するために、「一見さんお断り」となったのは、当然の成り行きでした。
戦前の京都の商家の奥様は、旦那が花街で遊ぶことは全く咎めなかったそうで、むしろ「どうせ遊ぶなら玄人の芸妓さんと遊んでください」と奨励していたそうです。
その理由がまさにこの徹底したホスピタリティーと、お客の妻や家人を敵に回さない配慮にあったのです。
商家の奥様が安心して旦那を送り出せる場所。
それが、本来の花街の姿だったのです。
茶屋辻模様とは
江戸時代中期以降に大名以上の武家や公家の婦人や御殿女中の夏の正装用(麻布)として用いられて広まった図柄を云います。
風景模様の一種で、水辺の長閑な花々や人里の風景を鳥瞰図のようにパノラマ的に模様を配しているのが特徴です。
現代では、夏に限らず帯や着物に四季を通じて幅広く用いられる伝統文様です。
そもそも茶屋とは茶屋染のことで、江戸時代の染色方法の一つです。
そして、「辻」とは「帷子(単の着物)」のことであり、つまり『茶屋辻』とは「茶屋染の単着物」というのが本来の意味です。
上質の白の麻地に糊置して防染し,総模様を藍一色で染め上げたものを言います。
美しく繊細な文様染めですが、藍基調で使用できる色数は限られていました。
名の由来には諸説ありますが、京都の豪商・茶屋四郎次郎の案によることから「茶屋染め」という名がついたというのが現代の定説となっています。
後に絵師・宮崎友禅斎が茶屋染めの技法をもとに京友禅を生み出したといわれています。
現代では、カラーバリエーションも豊富になりましたね。
女性は「茶屋辻文様」の麻の単や絽の夏着物を一枚持っておられてもオシャレだと思います。
尽くし・という日本の伝統的美意識
日本の伝統文様には「〇〇尽くし」という形式の文様があります。
「桜尽くし」「実尽くし」「蝶尽くし」「宝尽くし」「松尽くし・・等々。
このように同じ目的や分類で括った事物を取り揃えて表した文様を『〇〇尽くし文様』と呼びます。
「尽くし」は、日本人独特の考え方で、事物を1テーマに絞って分類し、その全てを取り揃えてこの世を満たす富貴の吉祥を寿いでいます。
実際に文様として全てを描くのは不可能ですが、名前を『〇〇尽くし』とすることで、全てが揃っているという意味になります。
そして「尽くし」は文字通り「尽くす」からきた言葉で、意味としては「完結」や「極める」「満ちる」にも通じています。
尽くし文様の魅力
- テーマの統一感 一つのテーマで構成されているため、デザインに統一感がありながらも多様性を感じさせます。
- 象徴性 使用されるモチーフがそれぞれ特定の意味や縁起を持つため、装飾にメッセージ性が込められることが多いです。
- 芸術性 緻密なデザインと繊細な表現が、日本の伝統的な美意識を際立たせます。
尽くし文様は、日常品から贈り物、祝儀の場まで幅広く利用されており、日本文化の奥深さを体現する一例です。