着物にまつわる豆知識
できる社長の話題は、相手の知的好奇心をくすぐる。
だらりの帯の家紋の理由?
舞妓さんのだらり帯の下の方に紋が入っているのをご存知だろうか。
この紋はそれぞれ所属する置屋の家紋だ。
これは、10歳〜14歳くらいの子どもが舞妓をしていた時代にお座敷からの帰りに迷子になったとき、帯の紋を見て置屋まで送り届けてもらうための目印だった名残りだと言われている。
舞妓=子供だったのは昔のこと。
現代では未成年の舞妓がいるのは京都の花街だけだ。これも労働基準法の許容範囲の中での働きとなり、多くの舞妓が未成年ではない。
しかし、大人の女性が着る現代の舞妓の着物には、今も肩上げと袖上げがしてある。
これは舞妓は幼さが売りだった頃の名残だ。
成願義夫 記
浅葱裏(あさぎうら)
浅葱裏は、緑がかった薄い藍色(浅葱色)の木綿を使用した着物の安価な裏地のことだ。
浅葱色も藍で染まる色だが、藍染は染める回数によって色の濃さが変わり、色名も変わる。
当然、染める回数が多いほど高価になる。
染色作業を繰り返すことでできる色名の代表的な色は、1回染めは「甕覗(かめのぞき)」藍が入った甕をちょっと覗いた程度という意味だ。
3〜4回は「浅葱(あさぎ)」
7〜8回は「縹(はなだ)」
9〜10回は「納戸(なんど)」
16〜18回は「紺」
19〜23回染めはもっとも濃い「鉄紺」さらに「褐色(かちいろ)」のように濃くなっていく。
つまり、浅葱色は安価な染め物を意味し、そこから「浅葱裏」は、貧乏侍や田舎侍を象徴する言葉になった。
江戸時代に国表から江戸表に参勤した貧乏な田舎侍や下級武士を揶揄して、町衆は「浅葱裏」と蔭で呼んだ。
吉原の遊女たちからも馬鹿にされるほどの貧乏で野暮な侍の俗称だ。
例えば土佐脱藩浪士だった坂本龍馬も江戸では「浅葱裏」と呼ばれたと思われる。
考えてみたら、明治維新は浅葱裏達によって起こされた一大革命だったわけで、長州や薩摩の田舎侍達が「浅葱裏」と嘲笑、揶揄されてきたことが、彼らを奮起させた原動力になったのかもしれない。
成願義夫 記
衣装のジャポニスム
ジャポニスムと言えば、古伊万里や浮世絵、漆器などを思い浮かべますが、着物もヨーロッパに渡り、貴重なドレス素材として珍重された。
江戸末期、フランスや英国に渡った着物はドレスに生まれ変わって、再びヨーロッパの貴婦人達を華やかに装った。
友禅染と刺繍と摺疋田の技術を組み合わせたシルクの着物は当時のヨーロッパの人々を魅了した。
「江戸解き」とは
江戸時代、大名屋敷の女中が国元に帰る際に、あるいは江戸城の女中が退職する際に、この着物を解きほどいて反物にして売ったことが「江戸解き」名の由来だ。
同じく「御所解き」は、御所や貴族に仕える女官達の衣装を解きほどいて反物にしたものを言った。
これらの反物は高価で取引され、一部はこのように海外に渡り、貴婦人達のドレスに生まれ変わった。
成願義夫 記
松藤文様
この文様は、江戸時代に流行した文様だ。
平安時代の和歌「山高み松にかかれる藤の花 そらより落つる波かとぞ見る」に因んだ図柄が始まりと言われ、松の枝に掛かった藤花を打ち寄せる白波に見立てるという、古典文学からはじまった雅やかな意匠。
因みに、江戸時代の封建社会においては、一種のステイタス(身分や家柄や教養の高さを表す)として好まれた図柄があった。
それを代表するのが、『文芸文様』だ。
文芸文様とは、例えば万葉集、古今和歌集、伊勢物語、源氏物語・・等々に因んだもの。
その他、歌舞伎や能の演目に因んだもの、中国の故事に因んだものなどがこれらの類と言える。
当時、このような図柄の意味を理解するには、ある程度の高い教養が必要だった。必然的に身分や家柄が現れる。
現代でも人気がある『古典柄』と呼ばれる着物の図柄の大多数は、明治以前のこのような吉祥柄を模倣または継承したものだ。
それが、明治、大正、昭和、平成、令和となっても伝統文様として継承されてきたのだが、時代と共に少しずつ、図柄に込められる意味や謂れに対する関心が薄れ、意味不明の図柄が多くなってしまった。
成願義夫 記
文様・紋様・模様
文様、紋様、模様の違いについてのお話。
まず、「文様」には描く者によってその形が変化し、自由な表現方法を示すニュアンスがある。もちろん、伝統的な和柄には『型』が存在するので型に沿った自由表現だ。
一方、紋様の「紋」は、例えば『家紋』のように、描き手が変わっても再現性のある(結果が同じ)、定型的な形となり得ることを指している。
最後に「模様」とは、染織などを主とする製品の表面の図柄(和柄に限らない)として施されるデザインの総称だ。
模様には紋様や文様がそれぞれ独自に表現される場合もあれば混在する場合もある。
成願義夫 記
江戸の町衆の粋を代表する縞
現代でも、『縞柄』はカジュアル着物を代表する柄の一つだ。
江戸時代は、町衆のオシャレ心や粋を表す柄として男女共に大流行した。
縞は元々、筋(すじ)と呼ばれていた。
縞柄には、棒縞、千筋、万筋、子持縞、瀧縞、間道、唐桟、金通、四筋、矢鱈縞・・等々、実に多くの呼び名があり、江戸時代の普段着や街着の柄の中心として格子柄と人気を二分していた。
また、歌舞伎の役者達の中でオシャレな人たちは独自の縞や柄を持ち、自分の名前をつけて贔屓すじやファンに喜ばれたそうだ。(例、芝翫縞、仲蔵縞、彦三郎縞、三つ大縞など)
町衆はもちろん絹物は着ないので、木綿の縞柄が普段着の主流だった。
当時も役者が普段着として着たり、粋な女性や男性たちの必須アイテムとして縞の着物は大流行した。
成願義夫 記
比翼紋(ひよくもん)
「在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝」
(願わくば天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん)
これは、中唐の詩人・白居易の詩(長恨歌の一節)だ。
『比翼の鳥』とは伝説の鳥で、1つの翼と1つの眼しか持たない雄鳥と雌鳥が運命的に出会い、一緒に飛ぶときは一体となり、理想の形になり、しかも離れなくなるという、やはりこれも理想の夫婦やカップルを表わす。
また、「比翼」は理想の夫婦を表す瑞兆を寿ぐ言葉として、さらに「一対」を表す場合にも持ちられる。
「比翼仕立て」や、「比翼紋」などもこの言葉から派生した。
さて、この写真では、二つの家紋が重ねられている。これが「比翼紋」だ。
ご覧の写真の比翼紋は下が前田家の「星梅鉢」その上に重ねているのが徳川家の「三つ葉葵」だ。
前田家と徳川家の関係を表した比翼紋だ。
成願義夫 記
紙子(かみこ)
和紙(多くは手紙)を貼り合わせてつくられた衣類を紙子又は紙衣と言う。
古くから寺院や武士の防寒用などに用いられ、また貧しくて布の着物をきられない人にとって欠かせない代替品だった。
しかし元禄期(1688~1704)には富裕な町人や茶人にも愛用され、廓通いの通人たちが高価な材料で仕立てた贅沢な紙子もあったそうだ。
歌舞伎の和事の典型的な人物によく見られるのは、零落「やつし」の境遇だ。主に貧しさや、零落した身の上を表現するのに用いられている。
和事では傾城(遊女)に金を注ぎ込んで勘当された大家の若旦那や金持ちの息子が放蕩のはて一文無しとなったやつれ果てた姿を表わすのがお決まりのスタイルだ。
入れ上げた傾城(遊女)からきた手紙を貼り合わせた紙子を着て出るのが『廓文章 吉田屋』の主人公藤屋伊左衛門。実家から勘当されながらも愛しい恋人・夕霧に会うため廓に出向く伊左衛門が身につけた衣裳がこれだ。
紙衣は、江戸時代は文字通り、書簡用の和紙を揉み、貼り合わせて仕立てた。
歌舞伎の衣装としての紙子は和紙ではなく布を用いて制作するので美しいのだが、実際にはかなり見窄らしい姿だったはず。
芝居は基本的に「綺麗事」ですから、「リアリティー」よりも「美しさ」が優先され、写真のように色も現実離れした紫と黒の美しいものになっている。
成願義夫 記